「今日の滝沢カレン」第十弾。
今日も彼女の日本語を解読していく。
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7月3日 Instagram
まずはこの投稿から。ここ最近の蒸し暑さについての話題から入り、Instagramのストーリーについての説明を交えて、最後に番宣。
この投稿は最初の数文からエンジン全開。正直筆者は3回読んでも理解できなかった。
ではじっくり解読していく。
どう歩こうが、このどうにもならないくらいの抜け出し不能な生蒸しさ、身体をなんの反応を見せずに芯まで浸透してしまうこの感じを人には見せず歩く私たち、、☀️
んんんんんんんんんん...まあわかる、わかるよ。要は、「どこを歩いても逃れられないこの蒸し暑さで、本当は何もしたくないのに、そんな様子を見せないで平然と歩く私たち。」ということだろう。暑さを感じながらも表に出さない私たちの不思議さを表した1文。
まあなんとなく意味はわかるのだが、1つ1つ見ていくとわけがわからなくなる。まず大きな違和感を抱くのは「生蒸しさ」という言葉。おそらく「生温い」の「生」と同じような使われ方だが、聞いたことがない。おそらく「気持ち悪い蒸し暑さ」という意味だろう。
そしてその後の文章が問題。1回読んだだけでこの文を理解できた人がいたら、おそらくその人は滝沢カレンだろう。(いや、本人も理解してない可能性がある。)何が分かりにくいって、まず一般人には分かりにくい順序で単語が並べられている。彼女の単語をそのまま使って順序だけ書き換えると、
「身体を芯まで浸透してしまうこの感じをなんの反応を見せず人には見せず歩く私たち」
そしてさらに分かりにくい原因には、助詞が難解ということもある。上の順序で助詞だけ変えると、
「身体の芯まで浸透してしまうこの感じになんの反応も見せず人にも見せずに歩く私たち」
そして筆者なりに必要だと思ったものを補うと、
「身体の芯まで浸透してしまうこの感じになんの反応も見せず、その感じを誰に見せることもなく歩く私たち」
こうなるとだいぶ理解しやすい。「身体の芯まで浸透してしまうこの感じ」というのはこの7月の蒸し暑さのことである。蒸し暑さをこのように表現できることには滝沢カレンのセンスを感じる。
一歩コンクリートに触れたら、冬は肩身狭いだろうにコンクリートだって、今となってはみんなの幸せの持ち主だなんておかしい話が現実です😅♥️
過去最難関。マジでわからない。理解するために少しまとめてみる。
絵にしたら余計にわからなくなりました。ごめんなさい。
ここからは完全に筆者独自の解釈になるが、まず上の絵の解説から。
絵の左の季節は「冬」で、コンクリートくんは冷たいせいで、周りの人たちに文句を言われて、肩身が狭くなっている。
絵の右の季節は「夏」で、夏に生きる人たち(私たち)が冬のコンクートくんの冷たさを思い出し、その冷たさを夏にも欲しいと言っている。
つまり筆者が言いたいことをまとめると、「冬に不快なコンクリートの冷たさも、夏になると羨ましく感じてしまう」ということ。コンクリートは時期によって温度が変わって、その時期の人には嫌われてしまうが、別の時期の人にとっては幸せを感じる温度であることもある、ということ。人は夏になると冷たいコンクリートを欲し、冬になると暖かいコンクリートを欲する。(←滝沢カレンぽい物事の捉え方)
これに関しては最後のハッシュタグに回答があった。「#夏になれば冬に憧れ冬になれば夏に憧れる」。つまり「夏になれば冬のコンクリートに憧れる」という事になる。(筆者は憧れた事はないが)最後の最後で文章の理解を深める言葉を持ってくるあたりはさすが滝沢カレンだ。
なんとなく解決してきた気がするが、この1文にはまだもう1つ大きな問題がある。「一歩コンクリートに触れたら」というフレーズがどれにも繋がらないのだ。なので筆者はこの文章を「一方、コンクリートの話になると」と訳す。
「一歩」を「一方」と大胆に訳してみた。おそらく滝沢カレンはインスタグラムに投稿するとき文章を確認していないので、違う漢字に変換してしまったまま投稿することは十分にありえる。なぜ筆者がこんな大胆な意訳をしたかというと、前の文と対照的な比較をしていると捉えられる気がしたからだ。
前の文では「人間」について「季節の温度変化を表に出さない」と表現しているのに対して、次の文では「コンクリート」について「季節によって温度が大きく変わる」と表現している。こう考えると、「人間」と「コンクリート」は対の関係にある。この対になった2つを繋ぐ「一方」。しっくりくると思わざるを得ない。
そして筆者は「コンクリートに触れると」を「コンクリートの話になると」と訳した。一見、実際にコンクリートに触れてその温度を体感するという話になりそうだが、そう捉えてしまうと、後ろの文にどう足掻いても繋がらなくなってしまう。なので筆者はこのフレーズを「コンクリートの話に触れると」という意味で捉えた。こう考えると、前の文がコンクリートとは一切関係のない話だったことから、このフレーズは急にコンクリートの話になる前のワンクッションのように感じられる。
つまり「一歩コンクリートに触れると」というのは、「一方、コンクリートの話になると」という1つの接続詞のような役割を果たしている、と筆者は考える。
最後にこの1文を順を追って訳していくと、
原文「一歩コンクリートに触れたら、冬は肩身狭いだろうにコンクリートだって、今となってはみんなの幸せの持ち主だなんておかしい話が現実です」
↓
ちょい意訳「一方、コンクリートの話になると、冬に不快なコンクリートの冷たさも、夏になると羨ましく感じてしまう、なんておかしい事になる。」
↓
めっちゃ意訳「ところが、人間が気温変化を表に出さないのに対して、コンクリートは気温の変化を何よりも強く表現する。」
いかがだろうか。これが筆者の全力だ。
人間を丸見えにしてしまう、季節に置いてかれぬよう必死で早足なのは私たちのほうだったのか、なんて気付かされそうになるそんな夜の短時間でした😅
うぐぐぐぐ...まだ止まらないのか...この文もまたかなり難解だ。おそらく全体的な意味は「季節に対応しようと必死になっているのは人間で、コンクリートなど他のものはなんの努力もしていない、と気づきかけた夜のお散歩でした。」のような感じだろう。
「人間を丸見えにしてしまう」というのは前の文から繋がっていて、「コンクリートの性質が人間の必死さを丸見えにしてしまう」という意味だと捉えられる。筆者がこのフレーズで1文で、そのあとのフレーズとは別の文だと考えている。
「季節に置いていかれぬよう必死で早足なのは私たちのほうだったのか」というのは、「季節に合わせて着る服を変えて、暑さや寒さの不快さを表に出さないように必死になって季節を追いかけている」と私たちを表現している。
「気づかされそうになる」もなかなか独特。気づいてはないらしい。
「夜の短時間」というのはおそらく夜家に帰るまでの道を歩いた程度のことだと思うので、筆者は「夜のお散歩」と訳した。
この投稿の解説はここまで。他の文はまあ理解できるのでスルー。とにかく上で解説した3つの文が難解すぎた。
7月6日 Instagram
番宣ではなく、珍しく日常の投稿。ややこしい文がいくつかある気がしなくもないが、上で解説した7月3日の投稿が難しすぎたせいで、この投稿は読みやすいとまで思ってしまった。
この投稿では番組のロケで人生で初めてシンガポールにきたことの報告をしている。いいなあシンガポール。
月明かりに気付こうとも思えず、ビルの光にやられ、その光すらあたりまえの自然だと感じてしまう地上の片隅から、星かのように眺めてしまうそんな夜の一連🌉✨
冒頭の1文。シンガポールの夜を表した文になっているのだが、その表現の仕方が独特すぎて理解に苦しむ。簡単に意訳すると「月明かりに気づく前にビルの明かりに目が行き、そのビルの光さえもあたかも自然かのように感じてしまうシンガポールのビルから、まるで星のように夜景に見惚れてしまう。」ということだろう。
なんだろう、正直、筆者は普通にこの文の表現は素晴らしいと思ってしまった。ビルの明かりを否定しているのかと思いきや、実際はビルの明かりも星と同じような目線で眺めている滝沢カレン。美しい。
「地上の片隅」という言葉がなかなか独特だが、まあこの投稿だと、写真で滝沢カレンがいるところ(ホテル?)だろう。
#さまぁ〜リゾート
番組名は明かさないと言っておきながら、最後の最後でなぜか番組名を書き残している。これが今回のシンガポールのロケをした番組なのかは定かではないが、おそらくそうだろう。最後にポツンと書き残していったのはなぜなのだろうか。まあ面白い。
7月7日 Instagram
続けてシンガポールの投稿。正直この投稿はそこまで気になるところがない。前の投稿のハッシュタグに繋がる文章でもあるので、前回の投稿と合わせて読んでみるといい。
なんか、普通にいいこと言ってて幸せな気分になる。
7月8日 Instagram
3日ぶりの強烈な投稿。まだシンガポールにいるようだ。
空に恥じることなく、人間たちに星たちは何を思い何を照らすのか、全てを知るが口を開ける事を知らずに居座る星や空に感謝ですよね、みなさん😌🌟
ややこしい文だが、そこまで難解なわけではない。簡単に訳すと「人間はいつでも空に疑問を投げかけているが、その答えを知っている星たちは何も答えてくれない。だからこそ空を見上げることは楽しいのです。みなさん星や空に感謝しましょう。」ということ。滝沢カレンにしかない独特の視点。まあその通りのことを言っている。
足裏の軍団が地面と喧嘩中か✋🏻といいたくなるほど嫌われ具合で、地面はもっぱらそこにいたのに、かわいそうです...😞
問題の文。シンガポールのロケで疲れてしまったということを表した1文。この文は1つ1つの表現が異常に難しい。
まず「足裏の軍隊が地面と喧嘩中か」というツッコミ。足の裏で軍隊が戦闘しているような痛さなのだろうか。想像できないが、まあ痛いのだろう。
「嫌われ具合」だが、おそらく嫌われているのは足裏ではなく地面だろう。「私たちがたくさん歩いて足裏が痛くなってくると、地面を歩くのが嫌になり、地面を嫌ってしまう 」ということだと思われる(筆者は地面を嫌ったことはないが)。そしてそのあとの文で、そんな何もしていないのに嫌われている地面をかわいそうと言っている。
まとめて意訳すると「私たちの気分で嫌われてしまう地面はかわいそうです」と捉えられる。
まあこの文はとにかく「足裏の軍隊」のインパクトが強すぎる。滝沢カレンの言葉選びは本当に天才的である。筆者も今後はこの言葉を使っていこうと思う。
今週はここまで。
まとめ
今週はInstagramの更新頻度が高かった。しかも内容もかなり濃かった。
特に「一歩コンクリートに触れたら、冬は肩身狭いだろうにコンクリートだって、今となってはみんなの幸せの持ち主だなんておかしい話が現実です😅♥️ 」この文が本当に難しかったせいか、この文の解読が終わったあとは滝沢カレンの他の文章が簡単に理解できてしまった。こうやって、難関をクリアしていく過程で、筆者の滝沢カレン読解力がぐんぐん上がっていっているのかもしれない。
まあ今回は本当に苦戦するような文が多かったのだが、その中で滝沢カレンの文章の美しさにも気づいた。彼女にしかできない言葉選び、彼女にしかない物事の視点、これらのセンスは本当に素晴らしく貴重なものである。
では、また来週✋
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